パリ・ミュージアムパスを使って行く最後の施設が、コンシェルジュリーでした。
前の記事、サント・シャペルと同じシテ宮の一部です。
マリー・アントワネットが投獄された場所であり、最期の76日をここで過ごしました。
先日のパリ五輪 2024の開会式で、生首を持った赤いドレスの女性と歌う生首、吹き出す血を表す真っ赤なテープ…
この悪趣味な演出の舞台がコンシェルジュリーでした。
パリで最も 古い時計《追記》
シテ島のシャンジュ橋のたもとにある時計塔は、シテ宮殿の北東角にあり、コンシェルジュリーの一部です。
高さ47mのこの塔に1371年にシャルル5世が制作を依頼した時計が設置されました。
パリで最初の公共時計で1371年から今日まで600年以上にわたり時を刻み続けています。
それまで、教会の鐘でのみ時間を把握してたパリ市民は、この時計が設置されたことで、いつでも時間を知ることができるようになりました。
この時計は、「君主制と国家が教会の権力から解放されたことを象徴している。」(sortiraparis.comより)
時計にも、深い意味があったのですね。
時計はアンリ2世以降、装飾が加えられ、現在の文字盤は、1849年にルイ14世時代の設計図を下に再現。
1852年に作成された時計の正確な記述をもとに、2012年、元の外観に戻す作業が行われたそうです。
文字盤の太陽メラメラマークは、ルイ14世の象徴でしょうか?
左右二体の女性像は、法と正義。
右側は 天秤を持った女性、Lady Justice (正義の女神)ですね〜♪
元王宮が牢獄に
サント・シャペルの記事でも書きましたが、
パリ発祥の地が、シテ島でした。
6世紀の古くからあったのがシテ宮、ローマ時代の城塞をカペー朝2代目の王、ロベール2世時代から何度も建て替えや増築を行いシテ宮殿を充実させていきました。《ここ追記》
敷地内にルイ9世の要請でサント・シャペルが建設され、
14世紀にはパリ高等法院が建設され、権威の象徴となっていました。
今は、パレ・ド・ジュスティスとして、複数の司法機関が入っています。
シャルル5世はパリ市の防御のための要塞建設に心血を注いでおり、それが有名なバスティーユ要塞です。
シャルル5世がシテ宮には住まず、バスティーユの近くにある(マレ地区)サンポール館に移り住んだため、以降は、牢獄として使われることになりました。
19世紀まで牢獄としてつかわれていたとか…、割と最近?まで牢獄だったのね。
建物が古く簡素な感じです。
パリの装飾の多い宮殿や建物とは趣を異にしています。
入口も出口もこの狭さです。(警備が容易)
衛兵の間
入った所が大広間になっていて、ここで無料のタブレットガイドを借りられます。
自由に借りて行って、帰りに返すだけ、なんのチェックもないの、太っ腹だわ。
タブレットは、位置情報で、説明ポイントに来ると説明が読める仕組みです。
1785㎡の巨大な大広間で、現存する中世の広間としてはヨーロッパ最大の広さだそうです。
長さ 64m、幅 27.5m、天井の高さは8.5m
ここ、Salle des Gens d'Armes は、フランス国王に仕え兵士や召使の食堂として2000人が使っていました。
リブヴォールトが美しく、柱に埋め込まれたライトの間接照明で幻想的な風景を生み出しています。
写真上の左手の明るいところは暖炉の跡です。
電気のない時代、この地下にある巨大な衛兵の間は薄暗かったのでしょうね。
ここに大きなテーブルがいくつも置かれ、兵士や召使が食事をとっている…
そんな場面を想像して楽しんでいました。
階段で上階へ…
一般厨房跡
1350年ごろ(日本は室町時代)に作られた王家の使用人のための食事を作る場所(キッチン)。
右奥は、かまどの跡です。
監視人の部屋
マリー・アントワネットの独房
こちらのお部屋は、贖罪礼拝堂です。
マリー・アントワネットの独房だったところに作られました。
こんな狭い部屋に入れられていたんですね、8月2日から処刑の10月16日まで。(8月1日から2日に訂正)
正面の絵はコンシェルジュリーの喪服のアントワネット。
1793年1月に夫・ルイ16世が処刑されてから喪服を着ていたそうですが、いろんな布をはぎ合わせた質素なものです。(写真下)
1793年7月3日にルイ・シャルルと引き離されてからは、一度も喪服を脱がなかったとか??
マリー・アントワネットのドレスの資料から、彼女は身長154センチ、靴のサイズは23センチだったことがわかっています。
マリー・アントワネットは、私の中ではミュージカルや映画や漫画の中で生きている人物だったのですが、
眼の前に、実際に着ていた服や、被っていたボンネット帽など観ると、実在していたことが改めて身に迫ってきて苦しくなりました。
当時の牢獄は有料で、3種類に分けられていたそうです。
パイユー
最も貧しい囚人。藁が敷かれた雑居房で寝かされ、不衛生故に、病人続出。
ピストリエ
中流層の囚人。簡単なベッドがあり、雑居房で4人から5人程で生活していた。
プリゾニエ・ドゥ・マーク
富裕層や著名人の囚人。家具のある独房に入り(家具を持ち込むことも可能)、読書や仕事をすることもできた。
牢獄もお金次第で待遇に差があるとは世知辛い。
マリー・アントワネットはもちろんプリゾニエ・ドゥ・マークなので、家具持ち込みOK♪
読書もOKのはずが、コンシェルジュリーに来てからも2度の脱獄を試みたマリー・アントワネットは、
地下の暗い部屋に移され、燭台の使用を禁止されて、本を読むこともできず、最後はほとんど目も見えず、ひとりで歩くことさえままならなかったそうです。
コンシェルジュリーの中庭。
ここは女性囚人が、散歩をする場所でした。逃亡を防ぐためのフォークが突き出ていてものものしいですが…。
ただ
マリー・アントワネットは散歩することも許されなかった、と言います。
窓の外を眺めることは許されていたらしいです。
どんな思いで外を眺めていたのでしょう…
ジロダン礼拝堂
正面のカーテンの奥が、マリー・アントワネットの独房です。
生への執着が強い王妃
国王一家がパリ脱出に失敗したヴァレンヌ事件は、王家に対する反感を増幅させました。
マリー・アントワネットは、獄中でも、支持者の計らいで脱獄を決行しました(カーネーション事件)。
ルイ16世処刑以降落ち着いていたマリー・アントワネットへの市民の憎悪がこのカーネーション事件で吹き出し、
一気に処刑への道筋ができていったのです。
コンシェルジュリーに入った者は全員死刑、未来などないと諦めないところがマリー・アントワネットらしいです^^
コンシェルジュリーでは、王妃は兵士に人気があり、花を届ける者がいたり、食事も希望が聞き入れられていましたが、
徐々に待遇が悪くなり、不自由な生活を強いられるようになっていったようです。
一般人の知らないような贅の限りを尽くし、頂点を知った女性だからこそ、この牢獄の生活は耐え難かっただろうと想像すると苦しくなります。
「パンがなければお菓子を食べればいいわ」は、マリー・アントワネットの無知で高慢なセリフとして世に流布され認識されていますが、
この言い回しは、彼女が生まれる前からあったそうで、マリーは被害者、の一面も…。
無駄遣いは責められてもしかたない一面もありますが、そもそもルイ14世が豪奢なヴェルサイユ宮殿の建設や、度重なる戦争で、財政は破綻寸前。
マリーだけが責めを負わされるのも気の毒な気がします。
もともと関係が悪かったフランスと神聖ローマ帝国(ハプスブルク家)。
和睦を結ぶための結婚でしたから、
フランス国民が「オーストリア女」がフランスの財産を食いつぶした、と必要以上に悪く言われた可能性もあり…
いろんな不運が重なった、悲劇の王妃、というイメージ for me。
我が家の家族はマリー・アントワネットは悪い王妃、と言ってましたが、私は気の毒に思っています。
処刑のために、コンコルド広場へと移動させられるマリー・アントワネットの絵。
毅然と胸を張って階段を上っている姿は、最後まで王妃の誇りを失うまい、と自分に言い聞かせているようで胸に迫ります。
享年37歳、激動の人生ですね…
愛し合ったフェルゼンは…
現在、宝塚歌劇で上演中の『ベルサイユのばら フェルゼン編』。
王妃のピンチにスウェーデンから駆けつけるフェルゼン伯爵がなんともかっこいいのです!
18歳?の時に出会い、互いに惹かれ合った二人、
当時は政略結婚が多く、不倫、ダブル不倫はまかり通っていたようです。
同い年のフェルゼンと本心で付き合えて、ひとときの心の安らぎだったんでしょう。
一途に愛を貫くフェルゼン…に見えて、王宮へは、別の愛人の部屋から通っていたみたい。
マリー・アントワネット、数奇で不運な王妃様。
それだけに、人々の興味が尽きることはありません。
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